山本光矩

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日本における手話と口話の対立が始まったのはいつ頃なのか?

 日本における手話と口話の対立は手話側は高橋潔、口話側は西川吉之助、橋村徳一、川本宇之助という構図を意識する人が多いと思います。 しかし、私はこれが始まりではなく、大正13年頃が日本における手話と口話の対立の始まりではないかと最近、意識するようになりました。なぜなら、川本宇之助が聾唖者である三浦浩、横尾義智、藤本敏文ら三羽烏を敵視し、恐れを抱いていた理由を調べ、考えていく内に大正13年は三浦浩、横尾義智、藤本敏文ら三羽烏が大正14年11月22日に日本聾口話普及会を設立する前に口話教育の普及を食い止めようと日本中を回って講演していきました。西川吉之助と橋村徳一は気にしなかった様子でしたが、川本宇之助はこの出来事に不快感と危機感を抱いた様子でした。 西川吉之助と橋村徳一は成人聾唖者が何をしようが、私には関係ない事であり、口話教育の普及に尽力しなければならないという使命感を優先していたが、川本宇之助は先程の二人と違い、三浦浩、横尾義智、藤本敏文ら三羽烏が聾唖者の中心的な人物であり、纏め役であり、三羽烏が本気で口話教育の普及を食い止めようと活動し始めたら、口話教育の普及が大幅に遅れてしまうのではないかと意識していた可能性が高いと思われます。その為、三羽烏の弱体化を意識した手口を多用していました。特に三浦浩と藤本敏文の仲を壊そうと何度も関与していったが、仲を壊すどころが、逆に絆を深めてしまいました。ある意味、三羽烏の絆の深さは川本宇之助のおかげとも云えるかも知れません。 しかし、川本宇之助は聾唖界改めろう社会を自分の思う通りの流れになっていこうと日本聾唖協会の理事、全日本ろうあ連盟の名誉顧問になっています。日本聾唖協会会報「聾唖界」、全日本ろうあ連盟機関紙「日本聴力障害者新聞」に記事を何度も投稿し、聾唖者達を押さえつけたり、取り込めようとあらゆる手を打っていました。その結果、今の全日本ろうあ連盟という組織の体制は川本宇之助が望んだ体制になってしまいました。 今の日本ろう教育及び日本ろう社会が狂ってしまった原因は川本宇之助個人が行動した結果でもあります。だから、日本ろう教育及び日本ろう社会を正常化していく為には川本宇之助が遺した負の遺産を完全に消滅していく必要があります。参考文献【口話教育の父 西川吉之助伝】【川本宇之助の生涯と人間性】【日本聴力障害者新聞縮刷版1巻】【筑波大学同窓会史】【全日本ろうあ連盟 50年のあゆみ】【聾教育学精説】【藤本敏文】【大家善一郎の回想】【聾唖界】【手話賛美】【髙橋潔と大阪市立聾唖学校】【聾教育問題史】

杉敏三郎に掃除と裁縫を教えたのは誰?

 杉敏三郎は吉田松陰の実弟であり、生まれつきの聾唖者であった。その杉敏三郎は掃除と裁縫が人並み以上に出来ていたと云う。 では、杉敏三郎はいつから掃除と裁縫を始めたのか、掃除と裁縫を教えたのは誰なのか、気になります。 杉敏三郎をよく世話したのは長姉千代であり、杉敏三郎に字の書き方を多く教えてあげたのは千代だったようです。もしかしたら、掃除と裁縫も教えていた可能性が高いと思われます。 聾唖者の特徴の一つとして、聾唖者は耳が聞こえない代わり、目で人の動きを見たり、作業する時の手順を見て真似て実行する人が多いのです。それをしながら作業する事で熟練職人並になった聾唖者は多いのです。杉敏三郎もその特徴に当てはまります。 杉敏三郎が掃除と裁縫を始める時、杉敏三郎から長姉千代が掃除と裁縫している所を見て自分も掃除と裁縫をやって家族の役に立てたいと申し出たのか、長姉千代が杉敏三郎に掃除と裁縫を覚えさせ、杉敏三郎の精神的な重圧を少しでも軽くしてあげたいと思いながら教えてあげたかのどちらかになると思います。 杉敏三郎が掃除と裁縫を始めた時期については吉田松陰が亡くなった後であると思います。なぜなら、吉田松陰が自宅謹慎していた頃は仏壇に向かってぶつぶつと念仏らしき事を唱え続けており、吉田松陰が松下村塾を主催していた頃は塾生達と共に過ごしており、掃除と裁縫をやっていたという描写は見られませんでした。吉田松陰が無くなり、塾生達の多くは維新志士となり、倒幕に向けて多忙な日々を過ごす事となり、取り残された杉敏三郎はする事が無く、鬱々とした日々を過ごす事になったと思われます。それを見かねた長姉千代が杉敏三郎に掃除と裁縫を教えてあげたのではないでしょうか。 また、長姉千代は杉家を支え続けており、杉家の家事を広くやっており、父母をよく助けており、自らの子だけではなく、兄妹の子の面倒を見たりする事で杉敏三郎もそれに倣って父母を助け、子を慈しむ習慣が出来上っていたと思われます。  そういう意味で杉敏三郎の人格形成は長姉千代の影響が色濃く反映されていると感じられます。参考文献【エピソードでつづる吉田松陰】【歴史の中のろうあ者】【日本聾唖秘史】【吉田松陰の唖弟】【悔されど忍】

吉田松陰と関わり、聾社会の形成及び発展に影響を与えた人々

山尾庸三(子爵) 吉田松陰との直接的な関わりはあまり見られないが、吉田松陰の門下生達と共に行動する機会は多かった。イギリスに留学時、造船所で働く聾唖者を目撃し、後に楽善会訓盲院(後の東京聾唖学校)を開校する動機の一つになった。 大正4年に設立された日本聾唖協会の総裁に就任された。楫取素彦(男爵) 吉田松陰の親友であり、吉田松陰が主宰する松下村塾に間接的な援助を与え続け、自ら、教壇に立つこともあった。 吉田松陰の次妹寿と結婚し、寿没後は吉田松陰の末妹文と再婚する。 一時期、吉田松陰の聾唖の弟である杉敏三郎の面倒を見ていた。 足柄県参事、熊谷県権令を経て、明治9年に(第二次)群馬県県令(初代知事)となり、群馬県の発展に貢献した。その群馬県で昭和22年に全日本ろうあ連盟結成式が行われた。野村靖(子爵) 吉田松陰の門下生の一人であり、神奈川県権令及び県令・駅逓総監・逓信次官を歴任し、枢密顧問官、駐仏公使、内務大臣、逓信大臣等を歴任した。 兄である入江九一は共に松下村塾に入塾し、入江九一は久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿と並んで松門四天王の一人として数えられており、禁門の変で戦死された。 妹であるすみ子は伊藤博文の最初の妻となっている。(後に離縁) 楽善会会友及び東京盲唖学校商議員となっている。 次女であるゆきは楽善会訓盲院に入学し、後に東京盲唖学校唖生同窓会2代目会長に就任した。 ゆきが84歳の頃、三浦浩が連れてきた伊藤政雄と対面を果たした。吉田松陰の門下生で聾社会の形成及び発展に協力した人は他にもいるかも知れないので、詳しく調査してみる必要はあります。参考文献【エピソードでつづる 吉田松陰】【筑波大学付属聾学校同窓会史】参考サイト山尾庸三(Wikipedia)楫取素彦(Wikipedia)野村靖(Wikipedia)

杉敏三郎の親族一覧を整理してみました。

 杉敏三郎は吉田松陰の弟であり、生まれつきの聾唖者であった。吉田松陰を始め、親兄弟は杉敏三郎を心配し続けていました。杉敏三郎に関する資料は乏しい為、杉敏三郎の周辺の人々を調べ、杉敏三郎とどの様に関わっていたか、調べやすくしたいと考え、杉敏三郎を中心とした親族一覧を簡単に纏めてみたいと思います。杉敏三郎の両親父 杉百合之助母 杉瀧杉敏三郎の兄弟姉妹長兄 杉民梅太郎次兄 吉田松陰長姉 杉千代 杉敏三郎の教育を担当した次姉 杉寿三姉 杉艷(夭折)四姉 杉文杉敏三郎本人杉敏三郎の義兄弟姉妹杉亀(長兄杉梅太郎の妻)長兄の妻であり、杉家に嫁いでいる事になるので、杉敏三郎との関わりは深いと思われる。児玉祐之(長姉杉千代の夫)楫取素彦(次姉杉寿の夫、後に四姉杉文の夫)一時、杉敏三郎を別宅に住ませた事がある久坂玄瑞(四姉杉文の夫)杉文と結婚した際、杉家に住んでおり、杉敏三郎と共に暮らしていた事になる。杉敏三郎の甥姪長兄杉梅太郎の子ら長女 豊子長男 吉田小太郎 杉敏三郎が亡くなった際、「叔父杉敏三郎伝」を記す次女 滝子三女 道子杉敏三郎は長兄の子らとは相当期間、共に暮らしていた事になる。長姉杉千代の子ら長男(氏名不明)次男 児玉庫三長女(氏名不明)次女(氏名不明)三女(氏名不明)杉敏三郎を教育したのは杉千代が担当し、杉千代は杉敏三郎を教育する際、我が子も共に教育したのではないかと思われる。次姉杉寿の子ら長男 小田村希家次男 楫取道明杉敏三郎の叔父吉田大助(父百合之助の長弟)玉木文之進(父百合之助の末弟)瑞泉寺二十五世竹院和尚(母杉滝の兄)杉敏三郎の従兄弟玉木彦助(叔父玉木文之進の長男)玉木正誼(叔父玉木文之進の養子 乃木希次四男) 杉敏三郎は老いを敬い、幼きを慈しみ、親戚遠近を選ばず、人を敬愛した。と言われており、甥姪達の面倒を見ていた時期もあったかも知れません。上記に挙げた人々は杉敏三郎とどの様に関わっていったのか、もっと調べたり、考えてみる事にします。参考文献【歴史の中のろうあ者】【日本聾唖秘史】【エピソードでつづる吉田松陰】【吉田松陰の唖弟】その他 家族の一部について【Wikipedia】を参考

長州藩の維新志士達が宇都宮黙霖との対応について妙に慣れている件について

 宇都宮黙霖に関する文献を読んでいる内に、長州藩の維新志士達が宇都宮黙霖に対する対応が妙に慣れている事に違和感を感じました。 私自身、聾唖者として生きており、聾唖者と初めて対応する人々は対応に戸惑いながら、手探りで上手く対応していく事を覚えていく事になります。 長州藩の維新志士達も宇都宮黙霖と何度も関わっている内に上手く対応していく術を覚えていったのだろうと思いますが、宇都宮黙霖と言えば、吉田松陰に倒幕を決意させた人物です。だから、吉田松陰は松下村塾の塾生達に自分が倒幕を決意したのは宇都宮黙霖との往復書簡があったからだ。と話をしていたかも知れません。また、吉田松陰には聾唖の弟である杉敏三郎がいました。吉田松陰が処刑される際の最後の別れの際、杉敏三郎は塾生達と共に吉田松陰に対する寄せ書きを残しており、塾生達は杉敏三郎と何らかの関わりがあったと推察できます。塾生達は聾唖である杉敏三郎との関わりを持つ事によって、聾唖である宇都宮黙霖との付き合い方も少しずつ自然に身につけていたかも知れません。参考文献【吉田松陰の唖弟】【エピソードでつづる吉田松陰】【歴史の中のろうあ者】【日本聾唖秘史】【勤皇の傑僧 宇都宮黙霖】【宇都宮黙霖吉田松陰 往復書簡】【黙霖物語】【悔されど忍】