杉敏三郎が字をかけるようになった経緯の考察
まず、杉敏三郎が字が書けるようになった経緯を調べる前に谷三山と黙霖がいつ失聴し、学問を志すようになったのは何歳頃なのか、先に記します。その後に杉敏三郎が字を書けるようになった経緯を一つ一つ整理してみたいと思います。
1815~1816年(文化12~13年)
谷三山、この頃全聾となり、学問を志すようになる。
吉田松陰未誕生・杉敏三郎未誕生・谷三山14~15歳・黙霖未誕生
1836~1838年(天保7~9年)
この頃、黙霖は大学の素読を始め、学問への一歩を踏み出す。
吉田松陰7~9歳・杉敏三郎未誕生・谷三山35~37歳・黙霖13~15歳
1845年(弘化2年)
1月下旬、黙霖、完全に失聴し、言葉をほぼ発せなくなる聾唖の身となる。僧籍に入り、「覚了」と称す。
10月6日、杉敏三郎生まれる。生まれつきの聾唖であった。
弘化2年は黙霖が失聴し、杉敏三郎が聾唖の身で生まれたという事になり、偶然というか、運命を感じさせます。 吉田松陰16歳・杉敏三郎1歳・谷三山44歳・黙霖22歳
1853年(嘉永6年)
5月2日、吉田松陰が谷三山の元へ来訪する。
9月15日、吉田松陰、江戸で歴史物の絵本を買い、実家に送り杉敏三郎に読ませて欲しいと願った。 吉田松陰は弟と同じく聴覚障害を持つ谷三山と筆談議の中に杉敏三郎の教育の仕方についていくつか助言をもらった可能性がある。 谷三山が杉敏三郎の年頃には絵本を好んで読んでおり、絵本から知識を得ていたという経験から来る助言かと思われる。 聴覚障害児の教育は成人聴覚障害者から教えてもらうのが最も効果的なのは現在も同様なのです。現実主義である吉田松陰の判断は正しかった。 私個人の経験を話します。杉敏三郎と同じく生まれつきの聾唖の身でもあった幼い頃の私は文字だけの本を読むよりも絵本・漫画を読んだ方が言葉を覚えやすかったでした。なぜなら、文字のみだとどういう状況でどんな言葉を使うのかなかなか把握できなかったからです。絵本・漫画だとどういう状況でどんな言葉を使うのか、絵本・漫画に登場する人物がどんな表情でどんな言葉を使うのか、どういう状況にはどんな言葉が使われたのか、理解しやすかったのでした。谷三山はこの事を吉田松陰に伝えた可能性があり得ますね。
吉田松陰24歳・杉敏三郎9歳・谷三山52歳・黙霖29歳
1854年(安政元年)
吉田松陰、兄梅太郎との往復書簡の中に 梅太郎 「阿安(杉敏三郎)が書差送り候。阿万(妹千代の子)語を学ぶ、未だに墓行き申さず候、少々わかり候。」 松陰 「頗る可なり」 と杉敏三郎が字をかけるようになった事を兄として喜んでいました。
吉田松陰25歳・杉敏三郎10歳・谷三山53歳・黙霖30歳
1855年(安政2年)
元旦 吉田松陰 母瀧に 「安三も大分字が出来だし、よろこび入り参らせ候」 兄梅太郎に 「文、阿安など書初か何か遣はし候へと申すこと頼み奉り候」 妹千代に 「阿久・阿安、手習は出精するか。書初ども見せ見せ、歳徳さまへ上げたか上げたか」 吉田松陰は杉敏三郎が大分字がかけるようになった事に対し、喜びを隠せない様子で家族に手紙を出していました。 こうして見ると杉敏三郎が字をかけるようになったのは10歳以降になりますね。一般の子と比べ遅く感じますが、それでも字がかけるようになったのは家族にとっては大きな喜びとなったのだろうね。
9月10日、吉田松陰と黙霖の往復書簡が始まる。 杉敏三郎が字をかけるようになってから間もない時期に黙霖との往復書簡が始まることになっており、杉敏三郎が字をかけるようになっていたからこそ、聾唖の身である黙霖との往復書簡に偏見を持たずにやりとりできたのもあったかも知れません。 吉田松陰26歳・杉敏三郎11歳・谷三山54歳・黙霖31歳
1858年(安政5年)
元旦 吉田松陰は吉田氏略敍に 「弟敏は尚ほ幼なり」と書かれる。 【エピソードでつづる吉田松陰】には 「すでに14歳の少年をさして幼いとは、やはり知的発達の遅れを意味するものであろうか。」 と書かれていますが、私個人の見解では14歳の杉敏三郎の年頃の谷三山・黙霖は学問を始めており、杉敏三郎も谷三山や黙霖のように学問を始められるかと期待したが、期待通りには行かなかった失望も込められていたのではないかと思う。
12月2日 吉田松陰、杉敏三郎の事について 「吾が弟敏生れながらにして啞、今已に十四なり、面目動止、凡人に異るなし。其の字を写し書を模すること、頗る善く人に肖る」と書かれる。 吉田松陰はこの様に書いてもなお気にかける様子が見えますね。
12月26日 杉敏三郎、吉田松陰の惜別の言葉に「悔」という一字を書き残す。
吉田松陰29歳・杉敏三郎14歳・谷三山57歳・黙霖34歳
1859年(安政6年)
5月24日、家族との最後の別れ。杉敏三郎は吉田松陰から手をかけられ、助言を一言かけられ、涙した。
10月27日、吉田松陰処刑される 。
吉田松陰30歳・杉敏三郎15歳・谷三山58歳・黙霖35歳
その後の杉敏三郎は吉田松陰没後は兄及び兄の子の世話になり、裁縫・掃除をこなし、老を敬い、幼を慈しむ優しさを見せ、母の世話をよくしていたが、32歳の若さで急死してしまった。 明治期の聾唖者は家庭・職場で目上からの言い付けはきちんと守るのが美徳とされていた時代であり、現在の聾唖者と比べ、ストレスが相当溜まり易い環境であったのは想像に難くない。明治期の聾唖者達が若くして亡くなるという話は結構多く、杉敏三郎も例外ではなかった。
参考文献
【歴史の中のろうあ者】
【日本聾唖秘史】
【エピソードでつづる吉田松陰】
【吉田松陰の唖弟】
【伝記谷三山】
【宇都宮黙霖吉田松陰往復書翰】
【黙霖物語 きさらぎの花は開いて】
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