04Jan2018今日は谷三山が逝去されてから150年目の命日です。 谷三山が逝去されたのは慶応3年12月11日となっていますが、この和暦を西暦に改めると1868年1月5日になります。そういう意味では今日で谷三山が逝去されてから150年目の命日となります。 聾の身でありながら、吉田松陰の師であり、友であり、吉田松陰の生き様を見届けてきた一人でもあ...
12Feb2017聾唖者と対面した杉梅太郎と吉田松陰兄弟 杉梅太郎は吉田松陰の兄であり、吉田松陰と同様に聾唖の末弟である杉敏三郎の事を心配し、長兄として、又は家長として世話を続けていました。 その杉梅太郎ですが、聾唖者である宇都宮黙霖と関わったという事がいくつかの文献に載ってありました。つまり、杉梅太郎は宇都宮黙霖と対面し、吉田松陰は...
31Dec2016吉田松陰は単独で杉敏三郎に絵草子を読ませる事を思いついたのだろうか? 吉田松陰は実弟であり聾唖者であった杉敏三郎の為に江戸で絵草子を買って、杉敏三郎の元へ届けさせ、字を書けるようになったというエピソードがあります。 ここで気になる所があります。吉田松陰の生い立ちを調べてみると絵草子を読む事とは無縁の人生を送っており、江戸で絵草子を買う前に絵草子が...
02Oct2016杉敏三郎を世話した千代と金子重之助についての考察 杉敏三郎を世話したのは吉田松陰の妹であり、杉敏三郎の姉にあたる千代と吉田松陰の弟子である金子重之助の二人でした。 この二人は杉敏三郎を世話する為のノウハウをどうやって身につけていったのでしょうか。 また、谷三山は聴覚障害者であり、学者であり、教育者でもあったという点は無視で...
23Apr2015聾唖者と云う経験から見た吉田松陰と谷三山の出逢いの考察 嘉永6年に谷三山と吉田松陰は初対面を果たし、谷三山から見れば、私と初対面し筆談で会話するのはほぼ全員は初めての出来事で戸惑う事が多いのに、吉田松陰は妙に慣れていて、自分以外のつんぼと関わっているのではないかと感じたのだろう。 吉田松陰から実弟につんぼがいますと聞かれ、谷三山は納...
14Jan2015谷三山の幼児・少年・青年時代と杉敏三郎に与えた影響について 操(※谷三山の幼名)は3、4歳の頃から、さかんに絵草紙を買ってもらってよみふけった。 いまでいうところの絵本であるが、いまのような子どもに適した読み物でなく、またその種類や出版の数も少なく、なかなか一般の家庭では手にはいりにくかった。 「おとうさま、本を買ってください。」 操は...
20Feb2014聴覚障害児の弟を持つ吉田松陰が出会った唯一の成人聴覚障害者は谷三山 現代において、健聴の夫婦は子に聴覚障害を抱えていたら、失望し、涙を流した夫婦が少なくないのだろう。まず、子の耳が聞こえない事を診断した医師から補聴器・人工内耳の装着するように勧められる。又は聾学校や難聴学級を紹介されるなどの対応をしてもらうことになるのだろう。 日本にまだ聾学校...
18Feb2014杉敏三郎が字をかけるようになった経緯の考察 まず、杉敏三郎が字が書けるようになった経緯を調べる前に谷三山と黙霖がいつ失聴し、学問を志すようになったのは何歳頃なのか、先に記します。その後に杉敏三郎が字を書けるようになった経緯を一つ一つ整理してみたいと思います。1815~1816年(文化12~13年)谷三山、この頃全聾となり...
15Dec2010吉田松陰と杉敏三郎 杉敏三郎は吉田松陰の実弟で生まれながらの聾唖者でした。吉田松陰を始めとする家族とのコミュニケーション方法は筆談と手話が主でした。 容姿は吉田松陰によく似ていて、才気溢れる人物だったそうです。 黒船来航時 黒船に密航する時にアメリカ人に見つかってしまった吉田松陰が咄嗟に出し...
15Dec2010吉田松陰に関わった聾唖者達 吉田松陰が松陰塾を開く前には全国各地を遊学し、様々な人と出会い、日本の行く末について語り合っていました。その中には聾者も含まれていました。 杉敏三郎 吉田松陰の実弟であり聾唖者 吉田松陰の実弟で生まれながらの聾唖者で発音出来ず、吉田松陰を始め、親兄弟には筆談、手話でやりとりして...