大家善一郎から見た川本宇之介と三浦浩の関係
大家善一郎は三浦浩に対し、言葉では言い表れない程の様々な感情を抱いていました。
その中で大家善一郎の視点から三浦浩は川本宇之介に逆らえないと感じている場面がありましたので、「大家善一郎の回想」から引用します。
昭和8、9年ごろ、東京の池袋駅付近の土地を買収し、そこにろうあ会館を建設する計画があり、当時の資金で6,000円を準備するまで進んでいた。しかし、当時の樋口会長(東京聾唖学校長)と川本理事(上記校の教諭)と三浦氏の3人でろうあ者側と相談なしに独断で売却し、寄付金は闇から闇へと葬りさられた。それで、藤本氏らが資金の行方を調査したが、けっきょく不明のまま。藤本氏らが三浦氏に聞くと、「自分は何も決められない。ただついていくだけの状態であった」と無力感を嘆いていたそうだ。
この問題について、金沢市で日本聾唖協会評議委員会が開かれた時、私は若輩だったが、樋口会長や高橋副会長に質問したわけである。低賃金にもかかわらず、我々が精いっぱい努力して集めたお金だ。ハッキリさせてほしいと。それに対して東京聾唖学校の校庭の一隅に同窓会会館という名でビリヤードなどの娯楽の場を建てたいという答えが返ってきた。日本聾唖協会と相談もなく、いきなり同窓会ができ、それが日本聾唖協会と共同で建設された、そういう話を聞いて納得がいかなかったわけである。私は、理事をおりて責任をとってほしいと強調したが、高橋氏は、ろうあ者の幸福のために苦労して建てたのにみんな理解してくれない。大家のような考え方は〝アカ〟と同じだ、と言われたことを覚えている。評議員の中にも、私に共鳴してくれる者は誰一人なく、私は憤然と、会議を放棄してしまった。
思うに、当時は腱聴者がろうあ者を押えきっていたわけである。
また、日本聾唖協会は社団法人組織になったが、文部省から年百円、宮内省から百円の補助があっただけで、当初の相互互助、社会的地位の向上などの目的実現のための事業はできず、年一回集会して楽しむ程度であった。権利を守る、保障させるという考えも運動もなく、きわめて幼稚な段階だったと思う。
引用終わり
大家善一郎の視点から見て、三浦浩は川本宇之介と樋口長市の2名に逆らえない状況に陥っていた事が判ります。この大家善一郎の回想の中にも一致していない情報があります。
まず、大家善一郎は東京聾唖学校内にろうあ会館を建てたのは昭和8、9年と発言していますが、「藤本敏文」と「筑波大学付属聾学校同窓会史」によると東京聾唖学校内にろうあ会館を建てたのは昭和5年とされています。
「藤本敏文」によると大正14年に日本聾唖協会が解散し、社団法人日本聾唖協会を設立する際、藤本敏文、三浦浩、樋口長市、川本宇ノ介の四名を設立代表者としてある。これが事実なら、三浦浩と藤本敏文の2名の立場より樋口長市と川本宇之介の2名の立場の方が強かった事になります。また三浦浩は樋口長市と川本宇之介とは東京聾唖学校という同じ職場に勤務していた為、日頃から色々とあったのは想像に難くないと思います。
大家善一郎だけではなく、複数の聾唖者達から見ても三浦浩は川本宇之介に逆らえない状況に陥っている事を痛々しく感じ取っていたかも知れません。
参考文献
- 【大家善一郎の回想】
- 【藤本敏文】
- 【筑波大学付属聾学校同窓会史】
- 【聾教育学精説】
- 【川本宇之介の生涯と人間性】
- 【日本聴力障害者新聞縮刷版1巻】
- 【聾唖界】
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