川本宇之介の苛烈な行為に耐えられなかった西川吉之助と耐えた三浦浩
川本宇之介は目的を達成する為には手段を選ばず、家族を見捨てたり、犠牲にする事も厭わないという出来事がいくつか起きており、かつての同志であっても平然と見捨てる非情さも併せ持ったのではないかと思います。
西川吉之助は口話教育を普及させた第一者としての知名度があり、三浦浩は聾唖界の巨星と呼ばれ、ろう社会では知らぬ人がいない程の知名度を誇っていました。
昭和8年以降に川本宇之介は単独でアメリカに渡り、国際聾教育会議に出席し、帰国後に国際聾教育会議に出席した事を報告したり、資料を渡したりする事で川本宇之介自身の発言力は飛躍的に上がり、西川吉之助と立場が逆転し、川本宇之介は西川吉之助を追放に近い形で実行していたのではないかと思います。西川吉之助の周囲には助けてくれる人がおらず、常に孤独という状態に追い込まれてしまい、自ら命を絶つ事になってしまいました。
一方、三浦浩は東京聾唖学校では川本宇之介が常に居て、川本宇之介から様々な苛めを受け続けていたと思います。それでも三浦浩は潰れる事はありませんでした。なぜなら、横尾義智、藤本敏文という親友や共に活動する仲間が大勢いて、それらの人々の助けや励ましを糧に潰れる事になく過ごしていました。潰れなかったが、胃潰瘍や胃癌といった症状は起きており、三浦浩自身に相当な負担はかけられてしまいました。
川本宇之介に迫害された二人のケースを比較してみると、聾教育復興会を去った西川吉之助には助けてくれる人がおらず、失望の内に命を絶ってしまいました。一方、三浦浩は助けてくれる人が大勢いた為、77才で亡くなるまで支えられ続けられていました。
川本宇之介は西川吉之助を潰して、聾教育を思い通りに展開しようとして、それは実現した事になりました。そして、三浦浩を潰して、ろう社会を思い通りにしようと思っていたが、それは叶える事は出来ませんでした。ある意味、川本宇之介は三浦浩が聾唖者達から慕う人望を恐れ、なんとかしようとしていたみたいでしたが、三浦浩から人望を失わせる事をいくつか実施した様ですが、失わせる事は出来ませんでした。
参考文献
- 【聾教育問題史】
- 【聴覚障害教育コミュニケーション論争史】
- 【口話教育の父 西川吉之助伝】
- 【川本宇之介の生涯と人間性】
- 【聾教育学精説】
- 【日本聴力障害者新聞縮刷版1巻】
- 【手話は心】
- 【手話賛美】
- 【高橋潔と大阪市立聾唖学校】
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