西川吉之助と川本宇之介の立場が逆転したと思われる出来事
日本に口話教育を本格的に普及させた人物としては西川吉之助・橋村徳一・川本宇之介の三名になりますが、文献によっては西川吉之助が口話教育の父、川本宇之介が口話教育の父であり、西川吉之助が口話教育の生みの母という表現があります。
昭和8年に川本宇之介は単独でアメリカに渡り、国際聾教育会議に出席しました。アメリカから帰国後に国際聾教育会議で得た情報や資料等を聾教育復興会や文部省に伝えたら、川本宇之介の発言力は飛躍的に上がり、川本宇之介の元に人が集まる様になっていたと思います。それによって、アメリカで行われた国際聾教育会議に出席しなかった西川吉之助と橋村徳一は発言力が下がり、自分らの元から人が去り、川本宇之介の所へ行ってしまい、西川吉之助と橋村徳一の話を聞いてくれる人が居なくなってしまいました。西川吉之助は家業の不振もあり、聾教育が川本宇之介の思い通りに展開してしまう事に絶望し、自ら命を絶ったのだと思います。橋村徳一は聾教育復興会から去り、地元の愛知県で独自の活動を展開し、天寿を全うする事になりました。
そして、聾教育は川本宇之介が中心となって展開し、今の聾教育の形を築いていきました。
これらの出来事を仮定してみると西川吉之助と橋村徳一は川本宇之介の暴走を抑える事が出来ず、川本宇之介と決別し、地元で自らが考案した口話教育を展開するしかなかったという状況に追い込まれてしまったのではないかと思います。
参考文献
- 【聾教育問題史】
- 【聴覚障害教育コミュニケーション論争史】
- 【手話は心】
- 【口話教育の父 西川吉之助伝】
- 【川本宇之介の生涯と人間性】
- 【聾教育学精説】
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