吉田松陰が加藤清正公廟で聾唖であった弟の為に祈祷を捧げた全文

嘉永3年(1850年)12月12日深夜、吉田松陰は加藤清正公廟前に額を地面につけて、祈祷の文を捧げた全文です。


 伏して惟んみるに我が加藤公は英武虓闞にして、威は三國に奮ひ、名は千載に傳はる、其の神は永へに死せず、靈驗今に新たかにして、能く躄者も善く履むことを得、眇者も善く視ることを得しめたまふと。神の斯の民に功徳ある、其れ誰れか敢へて尊信せざらん。遠方の人、區々祷ることあり、神其れ降監したまへ。某に弟あり、敏と曰う、生まれて五歳、四體缺くるものなく、九竅咸具はり、笑貌動息、人に異ることなし、唯だ其の言語喃喃として章なく、得て聽辨くべからず。父母の慈、是れ憐れみ是れ痛み、醫治百たび施して至らざる所なし。人事既に竭きたり、將た又如何せん。情の迫る所獨り神明に倚るのみ。大凡人は唯だ斯の心のみ、而して心の動くや言に由って述ぶ。荀も言ふ能はずんば則ち猶ほ心なきがごとし。心なきがごとくならば則ち人か、禽か、獣か、將た木石か、いまだ知るべからざるなり。夫れ四體缺くるものなく九竅咸具はり、笑貌動息、人に異ることなし、然り而して猶ほ尚ほ斯くの如し。豈に深憐重痛すべからざらんや。區々祷る所、神其れ降監したまへ。抑々某聞く、朱明の王守仁は五歳にして未だ言はず、其の名を改むるに及んで即ち能く言ふ。既にして其の道徳言功は百代に朽ちずと。天の非常の人を生むは必ず非常の祥あるか。果して然らば則ち神尚くは之れを啓へたまへ。神明を冒涜すは恐懼己むなけれども、亦唯だ尊信の至り已むを得ざるなり。神尚くは之れを察したまへ。某拜祷す。

 祷の事たるや、識者或はこれを譏る。而るに周公の金滕は尚書これを典謨誓誥に列し、庾黔婁の北辰を拜せしこと、朱子これを小學に載するは何ぞや。夫れ死生命あり、富貴は天にあり、身を修めて命を竢ち、己れを竭して天に聽くは君子の道なり。故に孔子曰く、「丘の祷ること久し」と。此れを棄つれば、天下豈に復た祷を以て得べきものあらんや。識者の譏りも亦宜ならずや。余は謂へらく、聖賢の祷は已むを得ざるの至情に出づるなりと。蓋し情の至れる所は理の存する所なり。今父母病ありて、將に爲すべからざらんとす。奉養具さに至り醫治百たび施すとも、人子たる者は尚ほ慊らざる所あり。甚だしく狂悖の人に非ざるよりは、死生命ありと曰ひて安然として自ら居ること能はず。則ち人子の父母の爲めに祷る、豈に至情において已むを得んや。故に祷なるものは斯の至情を蘊みて、以て之れを神明に諭すのみ。感應の事に至りては、幽妙隱微にして且つ彼れに在り、固より我れの必とする所に非ざるなり。此れをおしひろめては、晴を祷り雨を祷る等の事、皆然らざるはなし。余が弟の爲めに祷るも亦唯だ是の意なり。因つて平日持する所の論を以て併せ識すと云ふ。


【吉田松陰の唖弟】より引用 


 の祈祷の全文を今の言葉に訳すのは難しく、出来る範囲内で感想を出したいと思います。この時は吉田松陰が20歳、杉敏三郎が5歳の時で、弟はよく喋るが、言葉にならず、聞き分ける事が出来ないと言い、加藤清正公の御力で弟の耳を良くし、はっきりと喋るようにしてほしいと強く望んでいました。また中国では5歳まで何も言わなかった人がある日を境に言えるようになった事例があったこともあり、神頼みする事で叶える事を望んでいたようです。弟の為になんとかしようと真剣に取り込んだ様子が伺えます。