吉田松陰は聾学校の建設を考えていた

 余が策する所は、武備の冗費を省き、膏沢を民に下さんとなり。四窮無告の者は王政の先にする所、西洋夷さえ貧院、病院、幼院、聾唖院を設け、匹夫匹妻も其の所を得ざる者なき如くす。況や我が神国の御宝にして犬馬土芥の如くにして可ならんや。亦隣国の流民此の国に来る者あらば、人として本土を離るべからざる所為を暁喩し路費を与えて還すべし。若し深く我が化を慕ひて去ることを慾せざるものあらば、為めに一村落を開き田産を与へ是れを置き、尤も三年或は五年のふ復除(租税免除)を賜うべし。若し田地少く人民衆きに苦しむ時は、或は塗師、番匠、鍛冶等の諸工作をなし、硝石、漆、蝋、紙、諸薬物を製造せしめ国用に供し、余りあるものは他国へ売出すも亦禁ずることなくし、専ら下を利するを務めて、上を利するを務めず。


「獄舎問答」から引用


 吉田松陰は西洋に聾学校の存在を知り、我が国にも聾学校を建てたい想いがあったことが伺えます。聾唖であった弟杉敏三郎の事を強く意識した事がよく分かります。