西川吉之助の苦悩、そして自殺

 西川吉之助は我が娘である西川はま子が生まれながらの聴覚障害を持っていたのを知ってからは京都の盲唖院に見学し、世界各地から口話教育に関する文献を読み漁り、西川はま子に口話法を指導していったのです。

 そして、大正15年に西川はま子がラジオにて口話法の成果を放送され、多くの人々に感動を与えました。

 昭和3年には滋賀県に聾学校を建て、西川吉之助は聾児の為に全国各地を駆け回る日々を送りました。ここまでは順調にいったかに見えたが、異変が起こってしまいました。

 西川家は豪商として、北海道のオショロ漁で莫大な利益を得ましたが、不漁続きであり、口話教育の発展の為に金を多く注ぎ込んだ為、財産が徐々に失ってしまったのです。西川家を立て直す為の親族会議で、親族は「家の建て直しをするか、聾唖教育をするかのどちらかを選ぶか」と迫りました。西川吉之助は家の立て直しよりも聾唖教育を選んだ為、長年住んでいた家を引渡し、借家に移る事になりました。

 昭和14年には重い病にかかり危篤に陥ったが、小康を得たが、生きる気力が大きく衰えてしまいました。

 そして、昭和15年7月18日午前2時30分、川に飛び込み、自ら命を絶ちました。


参考文献

【口話教育の父 西川吉之助伝】