西川はま子、大阪市立聾学校の教師となる

 西川はま子は生まれた時から聴力障害を持っていましたが、父である西川吉之助が凄まじい熱意と深い愛情を持って、西川はま子に口話法を指導し、話せるようにしました。

 大阪市立聾学校は昭和初期に全国に口話教育が広まっていく中、手話教育を守った聾学校です。

 昭和15年、西川はま子は大阪市立聾学校を突然訪問し、高橋潔校長は「お父様が貴女に手話を教えてやって欲しいと頼まれるなら喜んで教えましょう」と厳しく言って、返してやりました。

 そして、父西川吉之助が亡くなった翌年の昭和16年に徳川義親の紹介状を持って、再び大阪市立聾学校を訪ね、大阪市立聾学校の嘱託教員となる。

 西川はま子は昭和16年から昭和22年まで大阪市立聾学校に在籍したと書いてある本がありますが、矛盾した点がいくつかありました。

 大阪市立聾学校は昭和18年、戦争中の為、休校となっていた。

 西川はま子は昭和19年に中途難聴者の45歳の男性と結婚し、福島県へ移住した。

 昭和22年、西川はま子は夫と離婚しました。

 これらの事例が事実であれば、西川はま子が実質的に在籍したのは昭和16年から昭和18年までの3年間となります。