西川吉之助・橋村徳一・川本宇之介 それぞれが口話教育に目覚めた動機

 西川吉之助は娘西川はま子が聴覚障害を持っていたのを知ってからは京都の盲唖院を見学し、欧米の聾教育に関する本を読み漁り、西川はま子に口話法を指導し、発音出来るようにしました。

 橋村徳一は名古屋聾唖学校の校長で、当初は手話教育を認めていましたが、大正3年のある日、卒業生の中に絵が上手な生徒がいて、その生徒の親が「私の息子が、会社へ入って製図の仕事をしたい、と言うので、先生、どうかその会社に就職を依頼して下さりませんか」と頼まれました。

 早速、生徒と担任、生徒の父親と私の4人で会社に面談しに行きました。

社長「うちの会社は口のきけないものに頼まなくても、口のきけるものがいくらでもいる」

橋村「この子はものを言えないかも知れないが、筆談で用事ができるから、何とか使って下さい」

社長「忙しい世の中、言葉で指図するのも面倒だと思っているのに、筆談などと厄介なことができるものか・・・」

橋村「それはごもっともですが、この子が会社に雇っていただけたら、この子だけでなく、ご両親もどれほど喜ぶかわかりません。また私どもの学校としても非常に名誉なことです。何とか我慢して雇って頂けないでしょうか」

社長「あなたの会社にとっては名誉かも知れないだろうが、こちらにとっては不名誉なこと、オシを雇ったために会社の体面が汚される」

橋村「しばらく給料はいらないから雇って見てくれませんか」

社長「そんなにまで頼むなら、雇ってみよう。その代わり一日おきに教師が来て注意してくれなくては困る」

 橋村徳一は社長の冷たい答えに怒りを感じながら、生徒の為に何度も頭を下げてやり、やっとの思いで採用してくれたのです。 それ以来、橋村徳一は聾者が発音できるようにしないと、会社に雇ってくれないと痛く痛感し、手話教育を止めて、口話教育と方針転換したのです。

 川本宇之介は大正11年から大正13年の2年間、文部省の役人として欧米の特殊学校を視察していきました。その時、川本宇之介は欧米の聾学校が手話ではなく、口話教育を取り入れた事は先進的な事だと強く感じたのです。 川本宇之介は後に、川本口話賞会を作り、全国の聾学校の生徒の中から、発音ができ、勉強に励み、生活態度が良かった生徒に送られました。うちの母校の卒業生の中に口話賞を貰った人がいます。第1回の受賞者は西川はま子でした。

 そんな3人が集まり、意気投合し、聾学校に口話教育の普及と発展の為に強く誓い合ったのです。 そして、大正14年、徳川義親と文部省の協力を得て、東京帝国大学で「日本口話普及会」を発会式を行いました。 このように西川吉之助、橋村徳一、川本宇之介は日本の聾教育に口話教育を爆発的に普及した三傑と言われています。

 もし、将来に再び口話教育を広めようと呼びかける人が現れた場合、聾者当人が手話は人権の一つであると言う必要があります。その為には、このような出来事があったのを聾者一人一人が頭の中に入れるのを望みます。


参考文献

【口話教育の父 西川吉之助伝】

【聾教育問題史】