西川はま子の迷走、そして・・・
西川はま子は生まれた時は難産であった為、クスコで耳を挟まったまま生まれてきました。挟まったまま生まれた為、聴力障害を持つ事になりました。この事に気づいた父西川吉之助がモノが言えない人にならないように、京都の盲唖院を見学し、欧米の聾教育の文献を読み漁り、西川はま子に発音の訓練をさせました。
父の深い愛情のおかげで、西川はま子は常人と変わらぬ発音が出来るようになったのです。大正15年、西川はま子は大阪放送局からラジオで口話教育の成果を発表に多くの人々に感動を与えたのです。
そんな西川はま子に悲劇が起こったのは昭和15年に父が自殺してしまった事です。 昭和16年には大阪市立聾学校に2度目の請願で嘱託教員として採用してもらいました。昭和19年に結婚し、昭和22年に離婚しました。
昭和26年には調理師の免許を取得し、続いて栄養士の国家試験にも受かりました。
昭和29年に聾者は技術習得する事で自立へと道が開かれるべきだと東奔西走しました。
昭和31年には父西川吉之助の同士であった川本宇之介が発足した川本口話賞会から第1回の受賞者となりました。
昭和32年に死去。(享年41歳)
西川はま子の死亡には病死であったと自殺であったとの2つの説があり、まだはっきりしていません。
西川吉之助、西川はま子親子は聾教育に口話教育という可能性を与えてきましたが、親子二人は最後まで報われる事なく亡くなりました。二人が亡くなっても二人の功績を称える「西川吉之助記念図書館」、西川親子を模した記念像「愛の像」が作られ、去年、2010年には第13回日本聾史学会滋賀大会で西川吉之助没後70年にあたる為、西川吉之助、西川はま子に関する記念講演が行われました。
西川吉之助、西川はま子がやっていた事は聾教育に口話教育という新たな可能性を残した事であります。実際、俺が聾学校に在校していた頃には西川吉之助が考案した教育法をいくつかやってきました。このように長い年月に西川吉之助が望んでいた事が聾学校に受け継がれていた事を忘れてはいけないと思います。
私は聾唖者であり、手話を基本言語としています。口話は受け入れません。ただし口話を広めた人にも大きな苦悩があった事も忘れていけません。西川吉之助、橋本徳一は手話教育に対する大きな失望から口話教育を取り入れる事になったのです。
また、西川吉之助、橋本徳一はド・レペ神父が生きていた時代にいたペレールとハイニッケの二人の口話法による教育者は王族、貴族、金持ちから高い金を貰って口話法を指導したのに対し、西川吉之助、橋本徳一は無償に近い形で口話法を指導しました。
口話教育を広めた事については正しかったのか、間違いだったのかは一人一人が考え、決めていくしかありません。
私個人の意見としては聾唖者でない人が広めた口話教育は聾唖者の基本言語である手話を認めず、聾唖者には口話がふさわしいと考え、実行された事は悲しみを感じます。
参考文献
- 【口話教育の父 西川吉之助伝】
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