川本宇之介がなぜ日本の聾教育をアメリカに追従する形にしてきたのか
川本宇之介はアメリカの聾教育のやり方を日本の聾教育に広めようとしたら、西川吉之助、橋村徳一と対立し、西川吉之助は後に命を絶つ事になり、橋村徳一に表立って活動する事は無くなったという流れになったのではないか?西川吉之助は娘はま子だけではなく、他の聾唖児にも自分の娘と同じように発音できるようにしていきたいと活動してきた。橋村徳一は聾唖児が卒業し、職を得て、自立する為には口話が必要だったと意識してきた。ただ、川本宇之介は聾唖児の為というより、アメリカからの意向に従って、日本の聾教育をアメリカと同じような体制にしていくのが目的だったのではないかと思うようになってきた。
川本宇之介の生涯と人間性を読んでみるとアメリカに関わった機会が少なくなく、川本宇之介の著作にアメリカの聾教育の内容の紹介が妙に多いのも気になってきて、この様な考察に至った。
戦後の日本の聾教育はアメリカの聾教育の手口を取り入れた機会があまりにも多すぎて、川本宇之介がそうなるようにしてきたのではないかと感じるようになってきた。
昭和21年2月に教育刷新審議委員会(現中央教育審議会)委員に任命され、特殊教育部門を担当してきた。これもアメリカのろう教育の手口をスムーズに進める為の一環として任命されていたのではないか。
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