口話3人組の仲が崩壊したと思われる際の考察①米国渡航編

 まず、中学校を卒業した川本宇之介の行動を抜粋してみよう。

 中学校卒業後、父は長男の故あってか、進学に反対した。だが、この意向はとおらなかった。 故郷という愛と桎梏(しっこく)のマユを食い破って、今や蝶は飛び立ったというべきであろうか。

 即ち、働きながら学ばんとして単身、札幌農学校(現北大の前身であり、当時“Boys beambi-tious!”のクラーク宣言で当校は全国の若き学徒の注目を一身に集めていた。)を目指し北海道に渡り、札幌駅の駅夫をして学資を蓄えていた。しかるに、我が子が突然いなくなった実家では、父を始め家族の者が、終夜チョウチンをさげて親類中をさがしまわったいきさつがあったが、宇之介のこの志は、やがて、無理に無理を重ねて体をこわし、やむなく帰郷せざるを得なくなった。ひるがえって才あるものは逆境に意味を与えてゆくというが、この事は川本宇之介が特殊教育者として至難なる先覚の道を歩んだ生涯に、その魂の生い立ちとして決定的な意味を与えている。

「川本宇之介の生涯と人間性」P16から抜粋

 当時15歳の川本宇之介は 家族に告げず、故郷である兵庫県から北海道に渡ったという経緯がありました。これち似たような事は昭和8年にアメリカに渡る際にも起こってしまいました。

 次に昭和8年の状況を整理してみよう。1月に全国聾唖学校校長会総会が開催され、鳩山一郎文部大臣の訓示が行われていました。6月にはアメリカにおいて国際聾教育会議が行われていました。川本宇之介はこの会議に出席する為に渡航する事になったのです。その時の状況を抜粋してみよう。

 昭和8年はアメリカに於いて「ろう教育国際会議」が開かれた年である。 「ろう口話教育」の5月号巻頭言で「本年6月18日より米国のニュージャシー州サウスジャシーシチーにある州立ろう学校において、国際ろう教育大会が開かれ、ついで6月26日より、8月1日まで5週間にわたり「米国ろう口話普及会」とシカゴ大学の共同主催になる、ろう者並びにろう教育に関する円卓会議が開催される。しかるに今の所出席者は一人もいない。このことはろう教育のために悲歎にたえない。事急にせまってはいるが文部省の援助は勿論、民間の助力も得て1人位は出席させたいものだと思うが、だれか出席する者はないだろうか。文部省としても積極的にでてほしいが、今の所、甚だ消極的である。もしここにかかる国際的会合が開かれるということを知らせるだけで終わるとしたならば、思えば思う程遺憾の極みである。」と当時の模様を切々と訴えている。

「川本宇之介の生涯と人間性」P46から抜粋

 西川吉之助と橋村徳一は米国に渡ってまで会議に出席する気はなく、危機感を抱いていたのは川本宇之介のみという事になり、ここにきて、口話3人組のすれ違いが始まっていたのではないかと思う。

 しかし、1人として名乗り上げる者のない事態にたち至って決然、川本は自ら渡米へふみきった。そして、7月号の巻頭言には「自己の物質的得失の如きはできる限りこれを超越してただ本邦ろう教育界のために、これを、大きくいえば、又本邦の教育と文化のために出席することの決心を――――。しかるに現状をみると出発が、5、6日後にせまっていますが、この会議に出て講演する材料をととのえるだけの時間がない、甚だ残念であるが船中で発表の原稿を作成するより仕方のない有様です。

 私は、この国際会議が初めてろう教育界の大先輩であり、事実上その王座を占めている米国に開かれることであるから将来の世界のろう教育に貢献する所が多大なるものである事を信ずる。私は私の耳が外国語から遠ざかっているためになかなか解らないだろうと思っていますが、兎の耳のように熱心に聞きすまして理解につとめましょう。又私はまわらぬ舌をうごかして出来るだけの質問もすれば本邦のろう教育の過去と現状の説明につとめるつもりです」とその心情を吐露している。しかし、この国際会議出席については、そう水を流すように坦々と事が運ばれたのではない。

 夫人にしてみれば、末の子供がお腹の中にある時でもあり、一家の父を外国におくるとなれば、当時のこととて並大抵のことではなかった。その上、金策については実に大変であった。かねて前々から川本はなにがなんでも一人は出席させたいと何度も交渉したが、文部省には旅費がなく駄目であった。

 「旅費がなければ来年度の予算をつかっても――――」とせまったが、来年度の予算もすでに使ってしまってないとの事であった。

 そこで川本は、いよいよ義憤を感じ「それでは自費でも私がいこう、辞令だけ出してほしい」といったそうである。 その日、文部省から帰った川本は夫人に「これからアメリカに行くから1万円用意せい。」といった。当時の1万円といえば今の500万円の価値は下らないであろう。

 夫人はおどろいて、川本の父にそのことを相談したが、父は反対であった。その時、父と妻を前にして云った言葉は、「自分の子供ばかりが子供ではない。広く社会の薄幸な子供達を思えば――――――。これより自分は川本家の財産と生命をこの教育に尽さん故、覚悟してほしい。」の一言であった。

 父は断固反対であり涙をためて翻意を促したが、それをもふりきって書斎に入ってしまった。父もいかりの余り兵庫へ帰ってしまった。更に「4ヶ所の仕事の整理と後始末があるから金は是が非でもお前1人で考えろ。」とも夫人にいった。夫人は実父や親類にあたってみたが、その甲斐はなかった。

 辿り着いた果は家屋敷を売る以外になかった。しかし、かたわら多少の定期預金があったので銀行にいって事情を話し相談した所、やっとの思いで家屋敷の代りに1万円を貸してもらえることになった。渡米を決意してから1週間の出来事である。その時すでに時間なく、銀行の話はついたものの川本はすでに東京駅に向い、夫人は銀行の証書に夫のサインが必要なことを知り、あわてて銀行の自動車で東京駅に向い、プラットホームで立ちサインするや否や、川本は発車している列車に飛び乗ったという全くあわただしいありさまであった。

 渡米した川本は、国際会議、円卓会議のみならず、広くアメリカ諸州の特殊教育の現状を視察研究して半年後、当初の予定をはるかに超えて帰国したのは12月の初旬であった。

「川本宇之介の生涯と人間性」P46~49から抜粋

 川本宇之介は目的を達成する為にあらゆるモノを犠牲にして成し遂げようとする行動力は15歳から既に発現しており、家族を路頭に迷う事になっても辞さないという覚悟は本物だろう。その覚悟が日本における口話教育を長く続けられてしまった事態を招いてしまったのを聾唖者及びろう者は肝に銘じるべきであると思います。

 これらの文章を読んでみると日本人が国際聾教育会議に出席しないのは恥であると強く思い込んだのは川本宇之介のみで他の人はそこまでは思っていない様子だった可能性がある。1月に全国聾唖学校校長会総会で口話教育が認められた事による安心感も相まっていたかも知れない。

 この出来事は昭和8年1月に行われた全国聾唖学校校長会総会後から昭和15年7月での西川吉之助の縊死までの中間的な出来事の一つとして注目しています。


参考文献

【川本宇之介の生涯と人間性】

【聾教育学精説】

【口話教育の父西川吉之助伝】

【歴史の中のろうあ者】

【聾教育問題史】

【聴覚障害教育コミュニケーション論争史】

【聾の経験 18世紀における手話の「発見」】

【善意の仮面 聴能主義とろう文化の闘い】

【聾の人びとの歴史】

【ド・レペの生涯】

【世界最初のろう学校創設者ド・レペ】

【手話は心】

【高橋潔と大阪市立聾唖学校】

【宗教教育について】

【聾唖年鑑】

【日本聾史学会報告書 1・8・9巻】など