吉田松陰と杉敏三郎
杉敏三郎は吉田松陰の実弟で生まれながらの聾唖者でした。吉田松陰を始めとする家族とのコミュニケーション方法は筆談と手話が主でした。 容姿は吉田松陰によく似ていて、才気溢れる人物だったそうです。
黒船来航時 黒船に密航する時にアメリカ人に見つかってしまった吉田松陰が咄嗟に出したコミュニケーション方法は手振り身振りのジェスチャーでした。 実弟杉敏三郎とは日常的に手話でやりとりしていた為、咄嗟にジェスチャーで対応出来たと思います。
九州に遊学した時、加藤清正の廟に行き、加藤清正の力で弟の耳を治して欲しいと願っていました。
全国各地を遊学している時、大和(奈良県)に行った時、谷三山という聾者の儒学者と出会い、筆談で中国の古典等、様々な書について意見交換し、日本の行く末について吉田松陰に自らの持論を説いた。
牢獄に入られた時、聾唖者の僧侶宇都宮黙霖と書簡(手紙)を何度も交わして、宇都宮黙霖から倒幕を強く勧められ、最後には宇都宮黙霖の意見を取り入れる事によって倒幕を決意した。
遊学時、獄中時に聾唖者の意見を偏見を持たずに取り入れる事が出来たのは実弟が聾唖者だったから、抵抗は無かったと思います。
松陰塾を開いた時 塾生に対して、立って講義するのではなく、塾生と一緒に座って、ゆっくりと語りかける姿勢だったと言う。講義するだけではなく、共に泳いだり、何らかの観賞をしたりと生きた学問だったと言われている。
聾唖者に対して、言葉を覚えてもらうのは相当な根気が入り、時間をかけて分かりやすく教えてなければならない。弟とのやりとりで松陰塾の塾生に優しく語りかけるスタイルを身につけたと思います。 安政の大獄で処刑される前に家族との最後の別れの時、杉敏三郎は兄である吉田松陰が処刑されると悟り、涙を流した。吉田松陰は杉敏三郎の肩に優しくかけた。
もし、杉敏三郎が聾唖者で無かったら、明治維新は無かったかも知れない。聾唖者である宇都宮黙霖の意見を取り入れなかったら、倒幕するのではなく、毛利家の家臣として幕府に進言する程度しか出来なかったと思います。
他に松陰塾を開いた時、講義のスタイルが優しく語りかける方法ではなく、立って講義するスタイルだったら、理解しにくかったと思います。
吉田松陰と言う人物は弟敏三郎との関わりで土台を作り、聾唖者と筆談で意見交換する事が出来、松陰塾では塾生に教授するスタイルは杉敏三郎とのやりとりで定着できたと思います。
参考文献
【歴史の中の聾唖者】
【吉田松陰の唖弟】
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