徳川義親、西川吉之助とはま子との出会い

 オシの娘と父との会話に涙する。

 大正14年のある日、滋賀県八幡の西川吉之助さんとオシの娘の浜子さんが訪ねてきた。オシがものをいうのは奇跡といわれていた時である。浜子さんは全聾であるのに、父子のあいだの会話は普通の人と変わりはない。ぼくは本当にびっくりして涙が出てしまった。

 浜子さんは子供のころ病気で耳が聞こえなくなった。西川さんは、娘がつんぼでもオシにはしたくない、なんとか話ができるように育てたいと、親の一念で苦心惨たんし、アメリカにも研究に行き、自分で口話法をあみだして娘を教育した。相手の顔の動きをみてわかるように、発声を教えて、小学校の過程も親の指導で終わり、高等女学校の入学試験もパスした。同級生が親切に援助してくれて、女学校も無事に卒業した。西川さんはこういうのである。

 「わたしの娘ができるのですから、ほかのひとの子どもができないことはありません。日本の聾唖教育は、手話法(手まね)ばかりでいけません。オシが電車のなかで手まねで話をするのは気の毒です。見ているものが笑ったり馬鹿にします。オシは自分の責任ではないのに、どれほど劣等感を持つことでしょうか。聾教育界も手話法が唯一の教育法と思っています。口話法のあることを全聾唖学校に知らさなければなりません。」 

 それを聞いて、ぼくは西川さんを支援することにした。西川さんは娘をつれて、自費で全国の聾唖学校をまわり、口話法の実際を示して宣伝した。その結果、たちまち全聾唖学校が口話法に転換した。

 昭和6年1月、財団法人聾教育復興会ができたが、こんどは学校の先生方が、自分の点数を稼ぐことが主になって、聾者の福祉を忘れてしまった。ぼくは全国聾唖教育連盟を脱退した。いまは聾唖者自身がつくった全国聾唖連盟の総裁である。

 西川親子との出会いが、徳川義親が聾教育、聾社会に関心を持つ事になっていくようになっていました。


参考文献
【口話教育の父 西川吉之助伝】

【最後の殿様】
【指骨】

【手話は心】

【手話賛美】