徳川義親、高橋潔と議論

 時期は分からないが、記録上で徳川義親が車座上演を観劇したのは昭和15年11月16日です。観劇する前に大阪市立ろう学校を訪ね、高橋潔と議論したことになります。その時の出来事は昭和50年、名古屋の全国ろうあ者大会の時の式辞で話しています。

 「『足るを知って、以って自ら誡しむ』と、いう言葉がある。すべてのことに謙虚に心がけたいものである。口話法の創始者西川吉之助さんと娘のはま子さんに紹介された時、私はすっかり感心してしまった。当時のろうあ学校は全部手話法ばかりであったが、口話法でこのくらいにものが言われるのだから、各ろうあ学校でも考えてもらいたいと西川さんは、全部自己負担で全国に宣伝したいから文部省もそれを認められたいと全国行脚をやられた。ところが、これは薬が効きすぎて、やがて殆ど全ろうあ学校が口話法を採用してしまった。そうして従来手話法で育った卒業生を口話法教育の邪魔になるからという理由で学校へ来ることを禁止し、福祉の仕事もやめてしまった。これは、ろうあ者の為ではなく校長、先生たちの点数をかせぐ為なのであった。

 そのころ私は大阪にいったので大阪市立ろう学校に高橋校長を訪ね、口話法と手話法について議論した。すべての学校が口話法と共に手話法も大切であるとして、むしろ孤塁を守っていたのである。高橋校長と議論した。敗けてたまるかと、喧嘩腰の勢いであった。しかし聞いているうちに、考えると私の言うことより筋が通っている。私は突然立ちあがって『敗けたあ』と、怒鳴ってしまった。高橋さんは、びっくりしてきょとんとしていた。『私は敗けました。あなたは経験者、私のは机上の空論です。私は御指導に従います』と、言って手を握った。高橋さんは正に情熱の人、夫人が亡くなられた時も、涙をこぼしながらも学校の会に出て斬られて世話をしておられた……」

 議論している時、高橋潔から 「これほど、申しあげてもおわかりにいただけないとは、失礼ながらあなたさまは馬鹿殿様です。」と言われています。、徳川義親は 「いいや、それでよかったのです。私は目が覚めたのです。そうして私は敗けたのです。」と回想しています。

 高橋潔との出会いで、聾者に本当に必要なのは何かを気付いた時だったと思います。


参考文献
【指骨】
【手話は心】
【手話賛美】
【口話教育の父 西川吉之助伝】
【最後の殿様】


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