西川吉之助が感じた手話教育
三女はま子が聾と診断された時、西川夫妻は大きな失望に襲われたが、なんとか立ち直り、はま子に最適な教育は何なのか考え、京都にある盲唖院に見学しに行きました。
盲唖院を見て、西川は「これはまあ、なんとみじめな学校だろう。」と思っていました。そして、盲唖院の聾唖部の聾児の手振り身振りによる遊戯、授業を見て、娘のはま子が発声出来なかったら、家族とどうやって意志疎通するのかと言う不安があったそうです。
西川が後に述べた原文には 「私はある日、参考の為に私立盲唖院の聾唖部を参観した。そこで聾児の遊戯や授業を受けている様子を見て、胸に迫るのを覚えた。それは、聾唖部全体の空気が世にも哀れな集団であると強く感じたからであろう。なるほど、ものを言う事が出来ない欠陥のあるいわゆる聾『唖』だが、しかし、その大多数は発声器官に障害があって、ものが言えないのではない。『ろう』である為に、言語を聞いて学ぶ機会を失ったのである。やむを得ず『唖』になったのである。言い換えれば、『唖者』として初めから教育されたので『唖』になったのである。もし、適切な発音法で教育されたなら、あるものは少なくとも外観だけでも『唖』という不具者扱いを世間から受けなくてもよいという信念が生まれた。」
心優しい人物であった西川吉之助が外見にこだわったと言う事は悲しい事であると思います。耳が聞こえないから発音出来ないと言うのは間違っていないと思いますが、教育次第では、発声が出来るようになり、社会に出ても発声が通用する人もいれば、通用しない人もいます。俺の場合、幼稚部、小学部、そして、21の時に埼玉で発声訓練を受けましたが、発声が通じるのは母校の先生、生徒と家族のみで、会社の人には全く通用しませんでした。
参考文献
【口話教育の父 西川吉之助伝】
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