娘はま子への教育が開始するまでの流れ

1919年 大正8年

 はま子が聞こえなくなった失意から立ち直った西川ははま子の教育の参考の為に、京都市立盲唖院した時に、何かいい教育方法は無いかと考えた時、教頭の岡正文から「日本では、この手話式の授業をしていますが、アメリカでは口話式の教授をやっているところもあります。それは唇の動きをみて相手の話を理解し、唇と下との運動練習によって声を発するようになるのです。英語で書いた文献なら、この学校にもあります。」といい参考文献を見せてくれました。

 この参考文献はアメリカから来日したジョン・ダットン・ライトが、京都市立盲唖院を訪ねれた時に置いていった「ヴォルタ・レビュー誌」でした。 更に、広告欄で通信講義録を知り、すぐ注文しました。他にドイツからも取り寄せました。

 取り寄せにかかった費用は500円ですが、その時は大正時代だったので、今に換算すると500万~1000万位になると思います。

 それだけ、娘の教育に熱心だった事が分かります。 はま子への教育を開始する前に、参考文献を読みながら、京都市立盲唖院の教頭岡正文や脇田良吉から発音の指導を受けました。

 そして、1年後に娘はま子への教育を開始しました。


参考文献
【口話教育の父 西川吉之助伝】