聾社会に貢献した徳川家康の末裔 徳川義親

徳川義親 1886年10月5日誕生、1976年9月5日没 徳川家康の血筋に連なる人である事は確かですが、血筋を探ってみるとややこしいです。家をそのまま継ぐよりも、養子に出され、養子先の家を継ぐ人が多かったようです。  

徳川 家康(初代将軍) ↓

徳川 頼宣(徳川家康の十男、紀州徳川家初代当主) ↓

徳川 光貞(徳川頼宣の長男、紀州徳川家第2代当主)↓

徳川 吉宗(徳川光貞の四男、葛野藩主→紀州徳川家第5代当主→第8代将軍)↓

徳川 宗尹(徳川吉宗の四男、一橋徳川家初代当主)↓

徳川 治済(徳川宗尹の四男、一橋徳川家第2代当主)↓

徳川 斉匡(徳川治済の五男、田安徳川家第3代当主)↓

松平 春嶽(徳川斉匡の八男、福井藩主16代当主)↓

徳川 義親(松平春嶽の五男、尾張徳川家19代当主)

徳川義親は徳川美術館の創設者でもあります。 大正14年のある日、西川吉之助、西川はま子親子が訪ねてきて、二人の会話のやりとりに涙し、聾教育を支援する事を決意する。 全日本聾話普及会の会長に選ばれる。 昭和6年に財団法人聾教育復興会の会長になるが、後に辞職した。

 最初は口話主義だったが、手話主義者である高橋潔の家に行き、討論し、 高橋から「失礼ながら、あなたは馬鹿殿様です!」と言い放されており、高橋の考えが正しいと判断すると「負けた!」と怒鳴っており、高橋を驚かせました。論破された後は手話主義と転換する事になりました。 手話主義転換後は戦後に設立した全日本聾唖連盟の総裁になる。 亡くなるその時まで、聾教育、聾社会を思い続けてくれた事に感謝したい気持ちです。

参照サイト

【Wikipedia】
参考文献

【最後の殿様】
【口話教育の父 西川吉之助伝】
【日本聾史学会報告書 第5集】