大日本帝国植民地と聾唖教育と手話の起源について
大日本帝国植民地における聾唖学校の沿革について
(聾唖年鑑・日本聾史学会報告書・Wikipedia等参考)
台湾のケース
日清戦争(明治27~28年・1894~1895年)
大日本帝国と大清国の間で朝鮮半島を巡る日清戦争が起こる。
1895年(明治28年)4月17日、下関で日清講和条約が調印され、戦勝した日本は朝鮮の独立を清に認めさせ、清から台湾を得る事になった。
台北州立台北盲唖学校
大正6年6月25日
木村盲唖教育所を開く。
大正9年8月
私立台北盲唖学校設立認可を得る。
大正10年10月
私立台北盲唖学校設立。
昭和3年3月
台北州に移管され、台北州立台北盲唖学校設立。
台南州立台南盲唖学校
明治23年
英人宣教師によって新樓構内に訓盲院を設ける。
明治33年
台南慈恵院が経営を引き継ぐが、聾唖院はまだ設立されていない。
大正4年
恩恵財団明治救済会から2万5千円寄付され、校舎を新築した。
大正6年
唖部技芸科を新設され、製紙裁縫等を授ける。
大正11年5月
台南州立台南盲唖学校と設立改称。
朝鮮半島のケース
日露戦争(1904~1905年・明治37~38年)
大日本帝国とロシア帝国の間で満州と朝鮮半島を巡る日露戦争が起こる。
日露戦争後、1910年(明治43年)8月22日
大韓帝国は大日本帝国に併合される。
朝鮮済生院盲唖部
明治44年
済生院が設置され、孤児盲唖者の教育及び、病者の救済を行う。
平壌盲唖学校
明治31年
米国宣教師が自費を投じて、盲唖児を収容し、教育した。
明治43年
朝鮮総督府私立学校令により、私立平壌盲唖学校としての認可を受ける。
中国(大連)のケース
日露戦争(1904~1905年・明治37~38年)
ポーツマス条約の際、ロシア帝国から中国内にある大連とその周辺の租借地の権利を譲渡された。
第一次世界大戦(1914~1918年・大正3~7年)
大日本帝国軍とイギリス軍は中国内にあるドイツ帝国要塞を攻略し、大日本帝国は中華民国に対し、「対華21ヶ条要求」を突き出し、ロシア帝国から譲渡された大連の租借地の期限を延長する事になった。
関東県盲唖学校
昭和3年12月
大連大広場尋常小学校の特別学級として聾唖教育を開始する。
昭和4年11月1日
大連大広場尋常小学校の校地に関東県盲唖学校を建築し、大連聾唖学校として開校する。
昭和5年4月1日
盲部を付設し、関東県盲唖学校と改称する。
南樺太のケース
日露戦争(1904~1905年・明治37~38年)
ポーツマス条約にてロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する事になった。
樺太盲唖学校
昭和6年
樺太盲唖学校開校。
昭和20年
樺太盲唖学校廃校。
台湾手話・韓国手話・中国手話の起源についての考察
先程の「大日本帝国植民地における聾唖学校の沿革について」で書いた通り、一部を除いて、植民化してから聾唖教育を開始しており、日本手話が台湾・韓国・中国等に伝わり、台湾手話、韓国手話、中国手話として発展していったのではないかと思われる。
私自身、韓国手話の一部しか見てないので、台湾手話と中国手話などを見てみれば、何かが分かるかも知れません。
参考文献
- 【聾唖年鑑】
- 【日本聾史学会報告書第3集】
参考サイト
- 日清戦争(wikipedia)
- 日露戦争(wikipedia)
- ポーツマス条約(wikipedia)
- 韓国併合(wikipedia)
- 第一次世界大戦(wikipedia)
- 第一次世界大戦下の日本(wikipedia)
- 対華21カ条要求(wikipedia)
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