吉田松陰が江戸に滞在した時期と杉敏三郎に絵草子を送った時期
1851年(嘉永4年)
- 参勤交代に随行し、萩から出発 3月5日
- 江戸へ到着し、そのまま滞在 4月9日
- 房総沿岸の巡検に向けて江戸から出発 6月13日
- 巡検を終え、江戸へ戻る 6月22日
- 江戸から脱藩した上で東北遊歴の旅に出る 12月14日
1852年(嘉永5年)
- 東北遊歴を終え、江戸へ戻る 4月5日
- 萩へ帰国する為に江戸を発つ 4月18日
1853年(嘉永6年)
- 萩から諸国遊歴の旅に出る 1月26日
- 谷三山を訪ねる 4月4日
- 谷三山を再び訪ねる 5月2日
- 江戸に入る 5月24日
- 鎌倉で滞在 5月25~29日
- 黒船来航の報を聞き、浦賀へ向かう 6月4日
- 浦賀から江戸へ戻る 6月9日
- 弟杉敏三郎の為に江戸から絵草子を送る 9月15日
- 長崎へ向けて、江戸から発つ 9月18日
- 兄杉梅太郎から杉敏三郎が字を書ける様になったとのお知らせが届く 11月5日
- 萩の実家へ帰る 11月13日
- 11月13日から25日の間、吉田松陰は家族に対し、谷三山と出会い、谷三山から杉敏三郎の教育について助言された事を詳しく説明していたのではないかと思われる。
- 江戸を目指す為に、萩から発つ 11月25日
- 江戸へ入る 12月4日
- 東海道の旅へ出る 12月8日
- 江戸へ戻る 12月27日
- 1854年(嘉永7年)
- 黒船に密航する為に江戸を発つ 3月5日
- 幕府に捕られたまま、江戸へ入り、そのまま投獄される 4月15日
- 牢獄から出て、萩へ戻る事になる 9月23日
- 萩へ到着し、野山獄へ投獄される 10月24日
1859年(安政6年)
- 吉田松陰、家族や門弟に最後の別れを告げる 5月24日
- 江戸へ到着する 6月25日
- 吉田松陰、斬首される 10月27日
年表を作成して、見直してみると吉田松陰は1851年(嘉永4年)に江戸に長く滞在しているにも関わらず、絵草子を送る事を思いつかなかったようだ。当時の吉田松陰は杉敏三郎に言葉を覚えさせるには絵草子が有効であるという結論には達していなかったと見ていいだろう。
絵草子を送ったのは谷三山と出会ってから4~5か月後の出来事であり、長崎へ発つ3日前という慌ただしさも感じられる。絵草子を送るまでの間に多忙の日々を過ごしたのだろう。絵草子を送ってから2ヶ月後には杉敏三郎は字を書ける様になってきたのだから、吉田松陰は兄としての喜びを爆発していたのは容易であろう。
1853年(嘉永6年)には10ヵ月ぶりに自宅へ帰り、家族に対し、谷三山と出会った事、谷三山から杉敏三郎の教育についての助言を詳しく説明していた可能性が考えられます。現在の聾教育においても聴覚障害児の指導について電話や手紙やメールでやりとりするよりも保護者に直接対話した方が効果的である事を考えるとこういう流れになるのが自然かと思う。
参考文献
- 【歴史の中のろうあ者】
- 【日本聾唖秘史】
- 【吉田松陰の唖弟】
- 【エピソードでつづる吉田松陰】
- 【「悔」されど「忍」】
- 【吉田松陰と旅】
- 【伝記 谷三山】
- 【吉田松陰と谷三山の出逢い】
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