吉田松陰に関わった聾唖者達
吉田松陰が松陰塾を開く前には全国各地を遊学し、様々な人と出会い、日本の行く末について語り合っていました。その中には聾者も含まれていました。
杉敏三郎 吉田松陰の実弟であり聾唖者
吉田松陰の実弟で生まれながらの聾唖者で発音出来ず、吉田松陰を始め、親兄弟には筆談、手話でやりとりしていた。 兄である吉田松陰が処刑する時、杉敏三郎は処刑されると理解し、吉田松陰から肩に手をかけてもらい、涙を流したと伝える。 32歳でこの世を去った。
吉田松陰が処刑されてなかったら、弟の為に古川太四郎よりも先に日本で最初の聾学校を作っていた人物になっていたかも知れない。
谷三山 江戸時代末期の聾儒学者
10代の時の病で、目と耳を患い、目はかすかに見えたが、耳は聴力を失った。後に失明した。 松陰が大和(奈良県)を訪れた時に会い、筆談で中国の古典、他色々と談話しました。日本の行く末についても、討論いました。
宇都宮黙霖 倒幕派の聾唖の僧侶
父の不倫が元で生まれ、辛い少年時代を過ごし、
17~20歳の間に失聴し、その後のコミュニケーションは全て筆談で用いる事になった。
22歳の時に僧侶として「黙霖」と称した。住職の地位には就かず、放浪の僧侶として生きて行きました。
吉田松陰の著書「幽囚録」を読み、感動し、獄中の吉田松陰に書簡(手紙)を何度も交わして、吉田松陰に討幕を強く勧め、決意させた。
明治維新後、総理大臣であった伊藤博文から「先生、先生」と呼ばれ、周囲を驚かせたエピソードがある。
宇都宮黙霖は聾唖の立場でありながら、歴史を動かすキッカケを与えた偉大なる人物だったと思います。
参考文献
【歴史の中の聾唖者】
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