谷三山の幼児・少年・青年時代と杉敏三郎に与えた影響について
操(※谷三山の幼名)は3、4歳の頃から、さかんに絵草紙を買ってもらってよみふけった。 いまでいうところの絵本であるが、いまのような子どもに適した読み物でなく、またその種類や出版の数も少なく、なかなか一般の家庭では手にはいりにくかった。
「おとうさま、本を買ってください。」
操は、いつも、「本を読みたい」「本、ほしい」とねだった。
「よっし、よっし、こんど大阪へ行ったら、たくさん買ってきてあげようね。」 父、重之は喜んで約束した。商用でたびたび浪速(大阪)に出ることがあったので、そのたびにかかさず草紙本を買い求めてきた。
操は、食べ物よりも、おもちゃよりも、何よりも本が1ばん好きであった。 父が求めてきたものは、全部くりかえしくりかえし読んだ。外へ遊びに出ようともせず日がな夜がな家の内にいて読書にふけっていた。
「少しは、外へ出て近所の子たちと、遊びっこしなさいよ。体のためにもよくありませんよ。」 さしてがんじょうな体格でないから、母は心配して遊べとすすめるのであったが、操は、読書にふけっていた。
6,7歳の頃になると、もう操は、おとなの読む草紙物をすらすらと読んでいた。 父、重之の趣味として読んでいた浄瑠璃物や歌舞伎物までも、読めるようになっていた。 特に操は、美事善行や人情物が好きであった。そして一度読むと、ほとんど全文をおぼえてしまうほどの記憶力があった。その中で、強く感じたところは、涙を浮かべ、声をふるわせて何度もくりかえして読んで、その物語を父母や家に来ている人たちに、話をして聞かせていた。
大好きな読書に明け暮れしていた操が、ようやく10歳を数えたので、ならわしにしたがって幼名の操を改めて市三という通名になっていた。その喜びからいくばくもなく、翌年、市三の身を襲ったのは恐ろしい病魔であった。目の病と耳の病が同時に市三を苦しめた。
「さして、がんじょうな生まれつきでないのに家に閉じこもって、本を読んでばかりいたからですよ」 母は、つい、ぐちともなげきともつかぬことばを出して、不安な空気が濃くする。
父重之は、 「どんなことをしてでもなおしてみせるぞ。」 と遠近をかけめぐって薬を探し求めた。医者を幾人も招いた。浪速(大阪)に出ては、外来(中国、和蘭)の薬を求め、名医を尋ねて手当の方法を聞いたりした。
一進一退の病状は、数年も続いた。 父母のまごころこもる看病と、金銭をいとわぬ治療によって、目の方はようやく治癒することができて失明をまぬがれたが、耳の方はありとあらゆる手段のかいもなく、だんだん聞こえなくなっていった。
「市三さん。」 と、母は叫びながら、額に手を当てて、揺り動かすと、 「はあい。」 とうつろな返事をする。 市三の耳からは、もう全ての音が消えていったのである。 耳を閉ざされて、音の世界から隔離された孤独な身の上となったさびしさは、いったいどんなものであろう。
「まあ、かわいそうに。生まれもつかぬつんぼになってしまうとは、これから学問を教えてもらうわけもならず、まあなんとしたことになってしまったの――――――」と母はよよと泣く。
「おかあさん、ぼく、耳が聞こえなくなっても目がなおって、見えるから本を読むよ。」 市三は、長い病床生活にもくじけず、なおも読書を求めてやまない。 でも、14歳の頃には完全に聞こえなくなってしまった。
身体はさして健康な方でなかった上に、全聾となってしまったが、三山はひたすら読書に没頭した。人の声も、世の中の声も聞こえなかったけれども読書することによって、歴史上の人々の声を聞いて楽しんでいた。昼はもちろん、夜も端座して読書にふけっていた。こうしたことが、なおさらに三山の健康を知らず知らずのうちにそこなっていったかも知れぬ。
しかし、三山は、ただ一すじに、読書が全生活、全生活が読書という毎日を過ごしていた。耳を閉ざされてしまっては自由に聞くこともならず、読書は困難をきわめたに違いない。三山の基礎的な独学は、14、5歳の頃から27、8歳のころまでの10余年間にわたり、学者として名を成す素地を培ったのである。
「伝記谷三山」より抜粋
谷三山は幼児から読書にふけり、聴力を失ってもなお、読書にふける日々を送っていました。 「おかあさん、ぼく、耳が聞こえなくなっても目がなおって、見えるから本を読むよ。」という一言は谷三山の母のみならず、吉田松陰にも伝え、谷三山と同じく耳が聞こえない吉田松陰の実弟である杉敏三郎が絵草紙を読み、字をかけるようになったきっかけを与えた事になっていたのだろうと思う。他に聴覚が機能しなくなり、最も使う感覚が視覚であった事も吉田松陰に伝えて、吉田松陰の家族による杉敏三郎の教育の参考となる数々の助言も与えていったのも考えられます。
そして、谷三山が52歳の頃になると、吉田松陰が来訪し、筆談による対話を繰り広げていったのである。
後に江戸に遊学しに行った吉田松陰は絵草紙を買い集め、実家に送り、杉敏三郎に読ませてもらうようにしていました。この吉田松陰の行動は幼児の谷三山が父に絵草紙を買ってほしいとねだり、買ってもらい、読ませてもらう事ができたという経験から来た助言に従った行動ではないかと私はそう見ています。翌年、杉敏三郎は字が書けるようになっていました。
また、谷三山は吉田松陰に聴覚を失ってから約40年の月日をどの様に過ごし、音の無い世界に居続ける事の感覚、聴覚を失ってから必要な事は何だったのかを伝え、杉敏三郎の教育にも影響を与えていったのではないかと思います。
今の感覚でいうと谷三山は吉田松陰から実弟杉敏三郎の為に聾教育の相談を持ちかけられ、自分自身の経験から杉敏三郎に最適と思われる数々の助言を与えていった事になったという事になりますね。
吉田松陰自身、聾唖の実弟である杉敏三郎の為に医薬を投与したり、名医に見せてもらったり、加藤清正廟にて聞こえるようになってもらいたい一心で願っていたりと苦心の連続であり、杉敏三郎が聞こえないまま、過ごす事になった場合、どうしたらいいのか、つんぼでありながら学者として名を馳せた谷三山に強く相談を持ちかけたりしたとしても不思議ではないと思います。
参考文献
【伝記 谷三山】
【谷三山と吉田松陰の出逢い】
【歴史の中のろうあ者】
【日本聾唖秘史】
【エピソードでつづる吉田松陰】
【吉田松陰の啞弟】
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