日本における「口話教育の父」西川吉之助 略歴
日本で口話教育を普及した人物の一人です。口話教育を目指したキッカケは三女はま子が聾である事を医師から診断され、はま子にはどんな教育が望ましいか、盲唖院を見学したり、海外から本を取り寄せて、苦慮に苦慮を重ねて、はま子に口話教育をするようになっていきました。 子供は8人設けており、子沢山であり、自分の子らにも、学校の子らにも平等に愛を注いだ人物でもある。
1874年 明治7年9月3日
滋賀県蒲生群八幡町(現:近江八幡市)で、父八十二郎、母さちの長男として生まれる。
1880年 明治13年
八幡西小学校に入学。 小学校卒業後、東京に行き、私立商業素修学校で学んだ。
1895年 明治28年 北海道で、私立小樽商業夜学校を設立し、校長として就任する。
1897年 明治30年 私立小樽商業夜学校廃校。
1898年 明治31年 本家の家督を継ぎ、北海道オショロで漁業を営む。
1899年 明治32年 本家の貞次郎の長女君と結婚する。長女昌子誕生。
1906年 明治39年 二女美和子誕生。
1907年 明治40年 アメリカに渡り、サンフランシスコ、フレスノ、シアトル等で働く。
1915年 大正4年 帰国して、京都に住む。この頃にロシア語、ドイツ語、フランス語を習得していた。
1916年 大正5年1月26日 三女はま子誕生。
1917年 大正6年 四女幾子誕生。
1919年 大正8年 はま子が聾であると診断される。京都市立盲唖院(現:京都府立聾学校)を見学し、手話以外の方法を模索し、アメリカの文献から、読話法を知る。
1920年 大正9年 はま子の教育を始める。岡正文や脇田良吉から発音の指導を受ける。鳥居嘉三郎にはま子の顧問役を依頼する。 長男伝一誕生。
1921年 大正10年 滋賀県の八幡に帰る。
1922年 大正11年 双生児の二男仲二、三男昌三誕生。
1923年 大正12年 糖尿病の為、入院し、危篤に陥っていたが、なんとか乗り越えた。
1924年 大正13年 五女幸子誕生。
1925年 大正14年 私費で「口話式聾教育」を発行。 自宅を教室と寄宿舎に提供して、私立「西川聾口話教育研究所」を開く。 この頃から、全国各地を回り口話法の講演、実演を行う。 橋村徳一、川本宇之介と3人で日本聾口話普及会を組織し、副会長に選ばれる。
1926年 大正15年 はま子が口話法の成果を大阪放送局からラジオで放送し、大きな感銘を与える。 はま子の姉昌子が「主婦の友」にはま子の教育体験記を書き、反響をよんだ。 日本聾唖教育会の評議員に選ばれる。
1928年 昭和3年 滋賀県立聾話学校が創立され、西川聾口話研究所は閉鎖し、研究所にいた教え子らは聾話学校に移される。 1930年 昭和5年 財団法人聾教育復興会の理事に就任。 2~3年前から北海道の漁業が振るわず、生活が次第に苦しくなっていた。
1936年 昭和11年 財産が尽き、借家に移る。
1939年 昭和14年 ひどい神経性黄疸を病み、危篤に陥り、小康状態になったが、気力が著しく失っていった。
1940年 昭和15年7月18日 午前2時30分急逝。死因は自死。 校葬による葬式が行われる。
手話を第一言語とする俺としては口話教育者である事は好ましくないですが、 娘はま子の為に、聾教育の為に私財を投げ打って貢献したのは教育者としては素晴らしい人物である事は間違いないと思います。
西川の働きで全国各地に聾学校が建てられた功績は無視出来ないし、世間に聾者の存在を広く認知していったのも素晴らしい働きでしたと思います。
西川吉之助の生涯を見て、口話教育が広まった時期が大体判明できますね。広まった時期は大正の終わり頃から昭和の初め頃ですね。その時から手話が聾学校で取り入れるまで長い時間を要する事になるが、これは後の話になります。
参考文献
【口話教育の父 西川吉之助伝】
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