川本宇之介の年表

明治21年7月13日(0歳

父川本栄吉、母みかの長男として、兵庫県武庫群精道村に生まれる。宇之介と名付ける。


明治30年3月(10歳) 

村立精道小学校を首席にて卒業。


明治31年(11歳) 

この頃より、近隣の寺に通い、四書五経、大日本史等を和尚について学ぶ。


明治40年(18歳) 

父は進学を好まず、川本宇之介は単身北海道に渡り、札幌農学校を目指し札幌駅の駅夫をしながら学ばんとしたが、病の為、短期間にて帰郷。後に東京に出る。 東洋大学に入学するも1年余で退学。


大正元年9月15日(24歳) 

東京帝国大学文科専科入学。


大正4年7月16日(27歳) 

同大学修了(教育学専修) 

卒業論文は「公民教育」を研究。同年大同館より出版される。


大正5年3月10日(28歳) 

西田美恵(当時18歳)と結婚。


大正5年4月18日(28歳) 

東京市教育課勤務。兼任東京市視学。


大正6年7月2日(29歳) 

長男彊雄誕生。


大正6年9月10日(30歳) 

東京高等工業学校付属工業補習学校(夜間)の授業嘱託。 

その間「大正新読本」と云う実業補習学校用の国語並び修身科教科書を数冊編纂。 


大正7年1月(30歳) 

大学の恩師林博太郎博士(元貴族院議員・満鉄総裁)の提唱により、理科教育研究会を結成する。

理科教育研究会は昭和7年に至るまで15年間、月刊機関誌「理科教育」を発行。毎刊「巻頭言」を掲げる。


大正9年7月1日(31歳) 

東京市教育課依頼免職。 

文部省に移り、社会教育調査嘱託。並びに盲啞教育の調査研究に従事。


大正9年11月25日(32歳) 

文部大臣の式辞を携えて、第7回全国盲啞教育大会(名古屋)に出席。 盲・聾教育をライフワークに決意。


大正10年5月20日(32歳) 

図書館の重要性に着目し、アメリカのライブラリースクールを参考に、日本初めての図書館員教習所を帝国図書館内(上野)に創設。自らその講師になる。


大正11年9月21日(34歳) 

文部省より盲聾教育研究の為、アメリカ、ドイツ、イギリス、デンマークへ留学を命じられる。 

その間、パーキンス盲学院、ハーバード大学盲教育講習会、クラーク聾学校に視察研究に遂げる。


大正13年6月4日(35歳) 

帰国、唯ちに東京聾唖学校兼東京盲学校教諭に任ぜられる。


大正13年(35~36歳) 

名古屋私立盲啞学校において、口話法普及講習会を開き、川本宇之介、西川吉之助、橋村徳一は口話法唱導を以て密着し、「聾教育のトリオ」と見なされる。 


大正14年2月(36歳) 

西川吉之助、橋村徳一と共に「口話式聾教育」増刊号を出版。


大正14年7月10日(36歳) 

「聾教育概説」を中文館より出版


大正14年11月22日(37歳) 

東京帝国大学工学部講堂において「日本聾口話普及会」発会式挙行。幹事に就任。


大正15年3月29日(37歳) 

東京市政調査会より1040頁にわたる大著「都市教育の研究」を発刊。


昭和3年3月30日(39歳) 

「公民教育」・「盲教育概観」・「東京市の実業補習教育」を相次いで発刊。


昭和5年6月6日(41歳) 

首相官邸において、聾教育復興会創立懇談会並び、聾児の実演授業を行う。


昭和6年4月27日(42歳) 

日本聾口話普及会の発展である財団法人「聾教育復興会」発会式を華族会館にて挙行。 


昭和12年11月24日(49歳) 

聾教育復興会主催のヘレンケラー来国記念聾唖者作品バザー展を上野松阪屋にて開催。 川本宇之介はその計画、運営の中核となる。


昭和13年8月22日(50歳) 

父、川本栄吉死去。70歳。


昭和15年7月18日(52歳) 

口話法の生みの父である西川吉之助死去。


昭和15年12月22日(52歳) 

信楽会より「聾教育学精説」を発行。


昭和16年12月28日(53歳) 

長男川本彊雄、東北帝国大学理学部卒業。但ちに第1回学徒出陣に立つ。


昭和17年11月28日(54歳) 

東京聾唖学校校長に就任。


昭和21年2月(57歳) 

教育刷新審議委員会委員に任命され、特殊教育部門を担当。


昭和22年(58~59歳) 

戦災により指ヶ谷町の校舎消失のため、文部省と交渉し、千葉県市川市国府台に旧陸軍施設の譲渡を受け、学校再建。 


昭和25年(61~62歳) 

東京教育大学国立聾教育学校校長に任ず。 


昭和26年(62~63歳) 

東京教育大学教育学部に全国唯一の4年課程、特殊教育学科(盲・聾・精薄・身体虚弱・肢体不自由・言語障害・行動問題児等の教員、研究者養成機関)創設にあたり石山脩平教授等とその実現に尽力。


昭和26年3月(62歳) 

青鳥会より第1回ヘレンケラー賞を受ける。 


昭和26年(62~63歳) 

教育大学講座第29巻「特殊教育」に「聾教育概説」を著述。


昭和26年4月1日(62歳) 

東京教育大学国府台分校主事就任。


昭和27年5月9日(63歳) 

母川本みか死去。82歳。


昭和28年3月31日(64歳) 

東京教育大学国府台分校主事辞職。退職記念として「川本口話賞会」を創設。


昭和28年4月1日(64歳) 

東京教育大学教育学部特設教員養成部講師に招かれ、昭和35年11月まで奉職。 

その他東京・大阪両学芸大学聾教育課程講師として、昭和33年まで奉職。


昭和29年6月5日(65歳) 

全国聾学校長会より、退職記念として「聾言語教育新講」を出版。


昭和29年12月25日(66歳) 

「総説特殊教育」を青鳥会より発行。「ヘレンケラー・ペスタロッチに献書する」としたためた。 

この著は留学以後30年来の特殊教育における念願であり「自分の半生と生命をかけた」と述懐してはばからぬ所産である。


昭和32年12月21日(69歳) 

群馬大学における第4回教育系学生ゼミナール、聾教育分科会に出席。 

「七度生まれても、この教育の完成に私は生涯を尽くしたい。若き君達はスクラムを心に組んで、この容易ならざる教育に信念をもって励まれるよう」と講演。


昭和33年(69~70歳) 

文部省より「盲聾教育80年史」の筆稿を依頼され、全草案を著述。


昭和33年11月(70歳) 

文部省主催の盲ろう教育80周年記念式典において功労賞を受ける。


昭和34年3月(70歳) 

身体に異常をきたす。


昭和34年5月11日(70歳) 

長男理学博士川本彊雄、気象庁海洋課の深海放射能研究中、過労による心臓衰弱の為、死去。


昭和34年7月12日(70歳) 

胃癌が発覚し、14日に手術を受けるも、既に手の下しようがなく、余命半年と診断される。


昭和34年11月19日(71歳) 

病をおして、東京教育大学において、特設教員養成部の学生に最終講義。


昭和35年1月28日(71歳) 

危篤状態にあるも、都内聾学校長を病床に招き(東京教育大学教育学部長石三次郎教授、同荒川助教授)に後事を託す。

尚、遺言として、文京区指ヶ谷町の元東京聾唖学校跡に記念碑を立てられんことを、依頼された。


昭和35年3月15日(71歳) 

午後3時30分、意識不明のまま、聾教育の父、ここに永眠。


昭和35年3月17日 

告別式、天皇陛下祭粢料御下賜。

内閣特旨を以て、従三位、正四位、勲三等に録せられ、旭日中綬章を拝授。


昭和35年7月13日 

遺稿「人間の教師」を世に送る。


「川本宇之介の生涯と人間性」から一部修正して引用しました。