杉敏三郎の精神的な状態について
吉田松陰には聾唖の弟がいました。名は杉敏三郎と云い、吉田松陰とは歳が15歳と離れていました。
日本聾唖秘史の著者である伊藤舜一が、杉敏三郎と関わった長谷川いね子に杉敏三郎について話し合った内容です。
伊藤 「松陰先生の御令弟杉敏三郎さんとは、ご存知の趣きと漏聞し、旅先熊本より馳せまゐりました。差支なき範囲に於いて敏三郎さんの在世当時の事々もをお伺ひ致したいと存じます。」
長谷川 「さあァ古い事ですから充分記憶いたしませんが」
「私が存じて居りますのは確か十三、四か、それとも十四、五のまだ娘時代の事であります。時々杉家にも出入り致しましたが、敏さんは大変お利口な方で、さう申しては何ですが、お兄さんの民治さんにも劣らぬ賢い人だったと存じます。若し耳が聴へられましたら、松陰先生にも勝るやうな、ご立派な方に成られたかとも思ひます。」
伊藤 「少々でも何か言葉を語られたでせうか?」
長谷川 「いいえ、少しも話せなかったやうです。唯ンンと言ひたげに声は出されました。手真似か筆でいつも用を弁してゐられました。」
伊藤 「耳は多少微でも聴えたでしょうか?」
長谷川 「え、金聾(全聾)でした。耳元で大声で話しても駄目のやうでした。」
伊藤 「教育をされたのはどなたで御座ゐました?」
長谷川 「芳子さんだつたと思ひます。」
伊藤 「芳子さんと申しますと、松陰先生が時々獄中から書簡を与へられました、妹の千代子さんのことでしようか?」
長谷川 「はい。左様でございます。」
伊藤 「文字は格別に良く書かれたと申しますが?」
長谷川 「大変お上手で皆の者が負かされる位でした。」
伊藤 「毎日の仕事は何をしてゐられました?」
長谷川 「お裁縫でした。お裁縫はとてもお上手で袴などは誰も及ばぬ位で、裁縫中でもお行儀よく座られまして、ハサミでも尺度でもいつも正しく整頓してお出になりました。少しも乱雑な事がなくて部屋は普段でも大変綺麗で御座いました。」
伊藤 「親孝行な方だつたと伺つていますが?」
長谷川 「はい、ご両親によく従はれました。殊にお父様が亡くなつてからは、お母様に、暑い時は暑いやうに、寒い時は寒いやうに孝養を尽くされました。」
出典:【日本聾唖秘史】【歴史の中のろうあ者】
「吾が弟敏生れながらにして唖、今已に十四なり、面目動止、凡人に異るなし。其の字を写し書を模すること、頗る善く人に肖る。」
敏三郎は、他人の読書や会話を熱心に見て、人の姓名や物事に名称があること、字体の種類についてもほぼ理解しているようだが、依然として言葉を発することができない。松陰の籠居する先祖の霊や神棚を祀った一室に、朝晩必ずやって来て、香を焚き拝礼をしているが、そのさいぶつぶつ呟いている。何をしているのかを問えば、恥ずかしそうに笑いながら唇に手をあて、誰にも知らせないでくれという。医薬針灸、何の治療を施しても喋るようにならないわが身の不幸を嘆き、神仏に縋って何とか癒そうとしている。いつまでこの祈りを続けるのか、もし祈りが通じなかったらどうするのか、無駄な努力をいたずらに続けているようにも見え、誠に悲しいかぎりである。よく考えてみると、四面楚歌、誰一人ついて来ない状況下で、尊王攘夷を叫んで止まない今の自分の姿に似ているといえなくもない。兄弟二人して、愚かな行為を繰り返しているのではないかと。
出典【エピソードでつづる吉田松陰】【歴史の中のろうあ者】
杉敏三郎と同じ生粋の聾唖者である俺から見ても悲しい限りです。赤字で書かれている箇所を見て、一日中絶えずに動き回さないと落ち着かない程、自分自身に対して自信を持てない苦しみが感じ取れます。字を書く時に非常に丁寧に書いたり、朝夕に仏壇に拝礼したり、一日に四~五回も部屋の掃除をしたり、親の世話をしたり、裁縫をしたりして、一人、もしくは家族と一緒に過ごしていたようです。もし、俺が杉敏三郎の立場だったら、かなりストレスが溜まり、体を壊してしまいます。毎日落ち着かない状態で日々を過ごした為、32歳の若さで亡くなったのではないかと考えています。
吉田松陰を含め、家族も杉敏三郎の行いを止めることは出来なかったのは、止めたら、杉敏三郎は更に苦しい状態になってしまうと気づいていたからです。そっと見守り続けるしか出来なかったのです。
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